
安達が原
むかし、むかし、東北地方(現福島県二本松市)に「安達が原」という広い野原がありました。そこには、鬼婆が住んでいて、旅人を捕まえては食べてしまう、と言われていました。
ある日のこと、旅の僧侶がこの野原を通りかかりました。日はすでに暮れ、僧侶は疲れと空腹で、もう一歩も歩けませんでした。一夜の宿を探しましたが、野原には家一軒見当たりませんでした。
途方に暮れていると、はるか遠くに明かりが見えました。僧侶は、杖にすがりながら、やっとの思いで、灯りを頼りにたどり着いたところは、垣根は崩れ、柱はゆがんでいる、みすぼらしい小屋でした。壁の隙間から中を覗くと、老婆が破れた行灯(あんどん)の傍らで糸を紡いでいました。
僧侶は、垣根越しに尋ねました。
「夜分失礼いたします。私は旅の僧ですが、道に迷ったあげく、疲れてしまい、もうこれ以上歩けません。一晩泊めていただけませんか。」
女は顔を上げて、僧侶を見ました。
「お気の毒に。でも、ここは野原の一軒家、満足な布団(ふとん)もございません。申し訳けありませんが、お泊めするわけには参りません。」
「布団の心配などご無用です。どうか入れてください。夜の寒さが凌(しの)げればそれでいいのです。」
「そうですか。こんなむさくるしい小屋でも構わぬと言われるのなら、入っておくつろぎ下さい。」
「ご親切、誠にありがとうございます。」
僧侶は中に入り、菅笠(すげがさ)と草鞋(わらじ)を外(はず)しました。
「当地に足を踏み入れたのは初めてです。あなたに出会えたのも仏の導きかもしれません。道に迷い、どうしたものか、何処に行ったらいいのかわかりませんでした。ありがとうございます。「地獄で仏」とはまさにこのことです。ありがたや!南無阿弥陀仏・・・」
老婆は、微笑み返すと、糸繰り機を脇に寄せてこう言いました。
「さぞお困りだったことでしょう。さあ、囲炉裏端(いろりばた)に座って温まって下さい。」
「ご親切本当にありがとうございます。おっ、温かい。骨の髄まで冷えてしまいました。ありがたや!」
「夕飯はお済みですか?」
「いえ、まだです。実は、山盛りのご飯が一気に食べられるくらい腹が減っています。」
「それはお気の毒に。何か食べるものを作りますからちょっと待っていて下さい。」
老婆は立ち上がると、食事を整え、僧侶に勧(すす)めました。僧侶は満ち足りた気分になりました。
二人は、囲炉裏端で語らい合いました。火が弱くなり、寒さが増してきましたが、薪(たきぎ)がほとんどなくなっていました。
「これは困った!薪を切らしてしまった。これから山に薪を取りに行って来ますが、ここで待っていてください。」
「私が代わりに行ってきましょう。私の方が若いですから。」
「お客さんにそんなことはさせられません。ここに居て下さい。」
老婆は、出かけようとしたのですが、突然振り向いて、こう言いました。
「いいですか。話しておきたいことがあります。今座っている所から動かないで下さい。奥の部屋が私の寝る部屋ですが、決してそこを覗いてはいけません。絶対に!もし覗いたりしようものなら、許しませんからね。」
「わかりました。絶対覗きません。私は僧侶です。約束は守ります。心配しないでお出かけ下さい。」
「絶対に覗かないこと。」老婆は念を押しました。
「絶対に覗きません。」僧侶は繰り返しました。
「これでひと安心。急がなくては。」
老婆は山の方に急ぎました。
僧侶は寒い家の中で囲炉裏端に一人座っていましたが、老婆が言った不可解な言葉が気になりました。そのことを考えれば考えるほど、好奇心が増してきました。
「見てはいけない。」と言われれば言われるほど、見たくなるものです。僧侶も中を見たくて立ち上がりました。でも老婆の忠告を思い出しました。
『今座っている所から動かないで下さい。奥の部屋が私の寝る部屋ですが、決してそこを覗いてはいけません。絶対に!もし覗いたりしようものなら、許しませんからね。』
僧侶は腰を降ろしましたが、考え直しました。
『ああ言って出て行ったけれど、おばあさんは今ここは居ない。覗いても黙っていれば、わからない。』
僧侶は何回も立ち上がっては座り、座っては立ち上がりしていたのですが、やっぱり部屋の中を覗いてみることにしました。
「構うもんか。戻ってくるまでにちょっと覗くだけだ。」
奥の部屋の戸を開けるや否や、強烈な血の臭いが鼻を突きました。何ということだ!部屋の片隅に山のように死体が積まれていました。頭、脚、腕、胴体… 床は血の海に染まっていました。
僧侶は、尻餅をつき、悲鳴をあげました。恐怖で体が震え、膝がしばしガクガクしました。
「ここ…ここは鬼婆の家だ。あの親切な老婆が正体を現し、戻ってきたら、私を一口に食べてしまうに違いない。ぐずぐずしてはいられない。一刻も早く逃げ出そう。」
僧侶はやっとのことで立ち上がると、自分の持ち物をまとめ、家を飛び出し、後を振り向きもせず、野原に向かって脱兎(だっと)のごとく走り出しました。
「こら!逃げるな!待て!」まもなく声が聞こえました。僧侶は、聞こえぬふりをして走り続けました。
「待て!待て!」鬼婆の声が段々と近づいてきました。「こら!どうして約束を破った!絶対覗くな、と言ったのに、中を覗いたな。許すものか。」
これを聞いて、僧侶は死に物狂いで走りました。
「お助けを!追いつかれてしまう。南無阿弥陀仏…南無阿弥陀仏…」
「待て!待て!」
「南無阿弥陀仏…南無阿弥陀仏…」
「待て!待て!」
「南無阿弥陀仏…南無阿弥陀仏…」
まもなく夜が明け始めました。それは僧侶にとってありがたいことでした。概して、鬼や幽霊にとって、日の光は苦手です。鬼婆は、日の出を見ると、姿がだんだん薄れていき、しまいにはどこかに消えてしまいました。
「よかった!ありがたや、助かった。ありがたや!南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」
僧侶は諸国の巡礼を続けました。(kudos)
画像 by さくらがおか