セロ弾きのゴーシュ(上)

ゴーシュは町のオーケストラのチェリストでした。その楽団員の中では一番演奏が下手で、いつも指揮者から怒鳴られていました。楽団員達は、町の、次のコンサートに向けてヴェートーヴェンの田園交響曲(第6番)を練習していました。
全員、精出して交響曲に取り組んでいました。ゴーシュも、口を固く閉じ、譜面をにらんで、真剣にチェロを弾いていました。
突然、指揮者が手を叩いて、演奏を止めると、大声で言いました。
「チェロ、遅い。全員、Cからやり直しだ。せーの!」
みんなは、Cからやり直しました。ゴーシュは、紅潮した顔で、額に汗をかきながら演奏して、注意された箇所は無事通り過ぎました。ホッとして弾き続けると、また指揮者が手を叩いて、演奏がとまりました。
「チェロ、弦の音がみんなと合っていない。お前は、本当にしょうがない奴だな。もう基礎から教えてやる暇はないんだよ。わかってるな。」
楽団員は、ゴーシュを気の毒に思いつつ、しばらく譜面を見たり、楽器に触ったりしていました。ゴーシュは急いで弦を調整しましたが、未熟な演奏技術に加えて、ゴーシュのチェロはかなり古いものでした。
「Dからだ。せーの!」
楽団員は指揮に合わせて一斉に演奏しました。ゴーシュは口をキュッと閉じて、一生懸命弾きました。今度は、かなり進みましたが、指揮者がまた手を叩きました。ゴーシュはまた怒られるのかと思いましたが、今度は彼のチェロのせいではありませんでした。
ゴーシュは、譜面を覗き込んで、何か考えているふりをしました。
「Fからだ。せーの!」
しばらくすると指揮者は床を踏み鳴らして叫びました。
「だめだ。まるでなってない。ここがこの曲の一番重要な所なのに、諸君は何も考えていない。演奏会まで残り10日しかないんだよ。ゴーシュ、もっと考えろ。お前の演奏には、怒りとか喜びの感情表現がない。おまけに、他の楽器と音が合っていない。お前は、靴紐が緩んだまま、いつも人の後ろについて歩いているようなものだ。お前には、本当に困ったものだな。しっかりしろ!お前の演奏のせいで、我がオケの評判が落ちたら、他の楽団員に申し訳がたたん…本日は、ここまで。」
ゴーシュの他の楽団員達は指揮者にお辞儀をして、立ち去りました。ゴーシュは大粒の涙を流し、古いチェロを抱えて、壁に向かって座りました。しばらくすると、気を取り直して、最初から譜面を復習(さら)い始めました。

gaushe1 ゴーシュは、黒い大きなチェロケースを抱えて、夜遅く家に帰ってきました。ゴーシュは、町のはずれの、川のほとりの壊れた水車小屋で一人暮らしをしていました。灯りをつけ、チェロをケースから取り出すと、そっと床に置き、水を一杯飲みました。ゴーシュは、首を横に振り、椅子に腰かけると、午後練習した曲の最初から物凄い勢いで弾き始めました。譜面をめくり、弾いては止め、止めては弾いて、自分の演奏を考え、何度も何度も最初から復習いました。
ゴーシュは、顔を真っ赤にし、目を血走(ちばし)らせ我を忘れて一心不乱に練習しました。真夜中はとうに過ぎ、今にも倒れそうでした。
その時、ドアを叩く音がしました。
「どうぞ。」ゴーシュは寝ぼけた声で言いました。
それは、何度か見たことのある大きな三毛猫でした。
猫は、ゴーシュの前にまだ熟しきらないトマトを置いて、こう言いました。
「疲れたな。重かった。」
「何だ?」
「これは私からの贈り物です。どうぞ召し上がって下さい。」
ゴーシュは猫に叫びました。
「一体全体、誰がトマトを持って来い、なんて言った。お前が持ってきたものなんか絶対食べるものか。大体、そのトマトは私の畑のものだ。充分熟す前に採りやがって。苗木を食ったり、畑を荒らしたのもお前の仕業だろう。帰れ、猫め!」
猫は首をすくめ、まゆをしかめ、ニヤッと笑うと、こう言いました。
「そんなにカッカしなさんな。体によくありませんよ。どうでしょう。シューマンのトロイメライを弾いてくれませんか。聴いてあげますよ。」
「黙れ!猫の分際で!」
ゴーシュは、このうるさい猫を、どうしてくれようかと、しばし考えました。
「弾いて下さい。聴かないと眠れません。」
「小生意気な!」
ゴーシュは顔を真っ赤にして、昼間指揮者がそうしたように、床を踏み鳴らしました。しかし、突如、考えを変えて、こう言いました。
「わかった。弾いてやろう。」
ゴーシュは、ドアと窓を閉めて、灯りを消しました。部屋の窓から、満月を少し過ぎた月の明かりが、射(さ)し込みました。
「何の曲だったかな?」
「シューマンのトロイメライです。」
猫は口を拭(ぬぐ)うと、真剣な眼差しで言いました。
「トロイメライだな…この曲かな?」
ゴーシュは、念のため、ハンカチを千切って、両耳に栓(せん)をしました。
ゴーシュは、突然、物凄い勢いで、「インドの虎狩り」を弾き始めました。
gaushe2 猫は、しばし首を傾(かし)げ、聴いていましたが、突然、目をパチクリさせると、ドアめがけて跳びはね、体ごとぶつかりましたが、ドアは開きませんでした。ゴーシュは、それを見て、とても愉快になり、前にも増して激しく弾きました。
「もういいです!止めて!お願いですから止めて下さい!二度と、何の曲を弾いて、なんて言いません。」
「うるさい!これから虎が捕まる所だ。」
猫は、苦しまぎれに、ゴーシュの回りを水車のようにグルグル回ったので、ゴーシュも目が回りそうになりました。
「よし、今回は大目に見てやろう。」ゴーシュは、やっと演奏を止めました。
「今夜の演奏は、別人のようでした。」猫は、何事もなかったかのように言いました。
ゴーシュは、またムカッとしましたが、グッとこらえて、タバコをくわえて言いました。
「大丈夫かな?ちょっと舌を見せてごらん。」
猫は、ゴーシュを馬鹿にするかのように、長い舌を突き出しました。
「ちょっと荒れているな。」そう言うと、ゴーシュは舌の上でマッチを擦って、タバコに火をつけました。
猫は、たまげて、風車のように、舌をぐるぐる回し、おぼつかない足どりで、ドアに何度も何度も頭をぶつけました。
ゴーシュは、しばらく猫を眺めてから、こう言いました。
「出してやるから。二度と来るなよ。まぬけな、猫ちゃん!」
ゴーシュはドアを開け、猫が風のように逃げていくのを見て、フフッと微笑みました。そして寝床に入り、安心したかのように深い眠りにつきました。(Kudos)原作:宮沢賢治 版画:畑中 純

                            (中)に続く

セロ弾きのゴーシュ(中)
セロ弾きのゴーシュ(下)
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