
セロ弾きのゴーシュ(下)
次の晩も、ゴーシュは夜遅くまでチェロの練習をし、へとへとに疲れて、手に楽譜を持ったまま眠ってしまいました。明け方、またドアをそっと叩く音がしました。
「どうぞ!開いているよ。」
それは母ネズミと小さい子ネズミでした。母ネズミは、ゴーシュの前にクリの実をおくと、お辞儀をして、言いました。
「この子が死にそうです。哀れにお思いなら、この子の病気を治してやって下さい。」
ゴーシュはむっとしました。
「俺に医者なんか出来るわけないよ。」
母ネズミは、しばらく目を伏せていましたが、思い切ったように言いました。
「先生はお医者様です。先生は、毎日、私の仲間の病気を治してくれています。」
「どういうことかわからないな。」
「先生のおかげで、ウサギのお婆さんもタヌキのお父さんも元気になりました。それから、無愛想なミミズクもそうです。ですから、この子も助けて下さい。」
「何かの間違いだよ。ミミズクなんて助けたことはない。」
親ネズミは泣き出しました。
「先生がチェロの演奏を止めたとたんに、この子は病気になってしまいました。もう一度弾いて下さい、とお願いしても、先生は弾いてくれません。可哀想に!どうか、この子のためにチェロを弾いて下さい。」
ゴーシュはとても驚いて大声を出しました。
「何だって?俺がチェロを弾いていると、ミミズクやウサギの病気が治る?どういうことだ。」
ネズミは、両手で涙を拭いながら、
「私たち、この辺の動物は、病気を治そうと、ここの床下に潜って、先生のチェロを聞くんです。」と言いました。
「まさか?」
「まさか、ではありません。先生のチェロの演奏を聞くと、体中の血のめぐりが良くなり、元気になるのです。」
「俺のチェロの音で、病気が治るなんてことが本当にあるのか?よーし、弾いてやろう。」
ゴーシュは、子ネズミを持ち上げると、チェロの穴の中に入れてやりました。そしてラプソディー(狂詩曲)みたいな曲を弾き始めました。2、3分後、演奏を終えると、ゴーシュは、子ネズミを穴から出して床に降ろしました。
子ネズミは、降ろされた途端、床の上でくるくる回りだしました。
「元気になった。ゴーシュ先生、本当にありがとうございます。」そう言うと、母ネズミも、子ネズミと一緒にくるくる回り始めました。
「ありがとうございます。本当にありがとうございます・・・」
ネズミの親子は10回ほどお辞儀をすると、帰って行きました。
ゴーシュは寝床に入り、直(す)ぐに深い眠りに落ちました。
それから6日目の晩、町の公会堂で、楽団は成功裏に「田園交響曲」の演奏を終えました。嵐のような拍手が起こり、アンコールに応(こた)えて、もう一曲演奏しました。楽団員がステージを去っても、聴衆は席を立たず、拍手は鳴り止みませんでした。
「アンコール!アンコール!」の掛け声。
指揮者は、突然、ゴーシュをステージの陰に呼ぶと、
「ゴーシュ、ステージに出て何か弾いてこい。」と言いました。
「私が、ですか?」ゴーシュはあっけに取られました。
楽団員がゴーシュをステージに押し出しました。ゴーシュを見て、聴衆はさらに力強く手を叩きました。
「みんなで俺を笑い者にしようとしている!よし、『インドの虎狩り』を弾いてやれ。」とゴーシュは思いました。
ゴーシュは、腹を決めて、ステージ中央の椅子に座ると、無我の境地で演奏に没頭しました。聴衆は、シーンとしたまま、ゴーシュの演奏に聞き入っていました。ゴーシュは演奏を続けました。猫がパチクリした場面が過ぎました。そしてドアにぶつかった場面も・・・
演奏を終えると、ゴーシュは聴衆の反応を見ようともせず、さっさと楽屋に逃げ込みました。楽屋では、指揮者をはじめ、楽団員全員が、目をつぶって、静かに座っていました。
「一体どうなってるんだ、今夜は!さっぱりわからん。」
指揮者が立ち上がり、ゴーシュに近寄りました。
「すばらしかった!ゴーシュ君。みんな、君の演奏に感動した。君のチェロは、この1週間で見違えるほど上手くなった。10日前と、今の演奏を比べると、まるで赤ん坊と兵隊のようだ。やればできるじゃないか。」
楽団員全員も立ち上がり、ゴーシュの所に行き、一斉に叫びました。
「ブラボー!!」
ゴーシュは、その晩遅く家に帰りました。水をがぶがぶ飲むと、窓を開けました。ゴーシュは、あの晩、郭公が飛び去った夜空を見上げました。
「ああ、郭公、すまなかったなあ。俺はお前のことを怒ったんじゃないんだ。猫もタヌキもネズミも、夜になるとやってきて、俺の練習に付き合ってくれてありがとう。」(kudos)原作:宮沢賢治 版画:畑中 純
おしまい
セロ弾きのゴーシュ(上)
セロ弾きのゴーシュ(中)