
耳なし芳一
12世紀中頃、平家は、宿敵源氏をほぼ全滅させました。そして政治的にも財政的にも一時は強力な権力を持つようになりました。しかしその繁栄も久しくは続きませんでした。壊滅状態となり権力を失った源氏が再び息を吹き返したのです。平家と源氏の戦い、「源平合戦」が両家の間で1180年から1185年にわたって繰り広げられました。「壇ノ浦の戦い」はその最後の戦いでした。壇ノ浦は本州、山口県の南端沖に位置しています。戦いは平家が完全敗北となり幕を閉じました。沢山の平家の人々が殺されたり、自害したりしました。
その後、この戦いの様子は、「平家物語」の話として、琵琶法師という盲目の琵琶奏者の語りにより日本中に広まっていきました。(琵琶は丸い胴体の4弦の日本の弦楽器です。法師とは僧侶のことです)「平家物語」は、平家のつかの間の繁栄と5年にわたる源平の争乱について語っています。
さあ、みなさん、ここに集まって座って下さい。とっておきのお話をいたしましょう。
今日のお話の主人公は芳一という目の見えない若いお坊さんです。実のところ、そのお坊さんがどこに住んでいたのか正確なところわかりませんが、おそらく壇ノ浦近くのあるお寺だと思います。いつのことかって、もちろん「源平合戦」の後のことです。
芳一はことのほか、琵琶を弾くのが好きでした。ある晩のことです。芳一は、いつものように一人、庭に面した部屋で、琵琶を弾いていました。ふと誰かがやってくる気配がしましたが、お話しましたように芳一は目が見えません。客人がどんな様子かわかりません。
「お前は、かの有名な琵琶奏者、芳一であるな。我が主が、お前の琵琶と語りを聞きたいと申しておる。拙者と一緒にご同行をお願いしたい。道案内いたそう。」
芳一は、声の調子から、いずれかのやんごとなきお方が、いま自分に話しかけているこの人を使者に使わしたのだと思いました。
芳一はがっちりした冷たい手で腕をつかまれると、使者の主が待つ所へ連れて行かれようとしていると直感しました。男と歩きながら、芳一はある音に気づきました。使者はよろいを身にまとっているのです。男に止まるように合図され、次には部屋の中に通された、と感じました。部屋の中では、あちこちからささやき声が聞こえました。
「大きな部屋に沢山の人がいる。」と芳一は思いました。
「男の他に、女、子供も座っている。」とも思いました。
しばらくすると、誰かが話しかけてきました。
「よう参った、芳一。そちの琵琶と語りを是非聞いてみたい。さっそく壇ノ浦の合戦の一節を聴かせてもらえまいか。」
「このお方こそ、私の琵琶を聴きたいといっておられたお方に違いない。」と芳一は思いました。さっそく「壇ノ浦の合戦」の一節を語り始めました。芳一は全身全霊を込めて琵琶を奏でました。部屋の誰もが真剣に自分の調べに耳を傾けているのがわかりました。平家一門、まだ幼い天皇(安徳天皇八才)を含む男女が入水(じゅすい)する最も悲しい場面に達した時、一人の女がすすり泣きを始めました。すると次から次へとすすり泣きが広がっていきました。部屋中、すすり泣きと泣き叫ぶ声でいっぱいになりました。悲しい物語の演奏は、多くの人の涙をさそい、終わりを告げました。芳一自身も自分のできばえに満足でした。実際、芳一は人々の反応に感銘を覚えていました。
芳一は再び声をかけられました。
「見事であった。皆のものも満足しておる。よければ、もう数晩ここに来て琵琶を奏でてもらいたい。後で褒美をとらせよう。」
芳一は、例の男の冷たい手で再び腕をつかまれると、寺へ連れ戻されました。
しばらくすると、寺の住職が、芳一の様子がおかしなことに気づきました。目が見えないものの、芳一は健康なお坊さんです。それなのに急に顔色が悪くなってきたのです。芳一は悪霊に取り付かれているかもしれないと、住職は思いました。そこで、しばらく芳一に目配りすることにしました。
その晩のことです。住職は誰かがやってきて芳一の名をを呼んでいるのを耳にしました。
「芳一、芳一」
しかし芳一の回りには誰もいません。驚いたことに、芳一は琵琶を小脇に抱えて立ち上がると、まるで誰かに導かれるように歩き始めたではありませんか。急いで、芳一の後を追うことにしました。日が暮れ始めていました。芳一は、誰かに強く後押しされているかのように、どんどん歩いて行きます。その歩きの速さに住職は危うく芳一を見失なうところでした。
しばらくすると、暗闇から琵琶の音が聞こえて来ました。住職が暗闇に目を凝らして見ると芳一が野原に座って、人魂に囲まれているではありませんか。その光景にはさすがの住職も鳥肌が立ちました。そういえば、あまたの平家の人々が、いくさの果てに、ここで斬られ、野ざらしになっていたのを思い出しました。この平家の亡霊に芳一は取り付かれていると住職は思いました。
翌朝、住職は芳一に二度と亡霊の所に行って琵琶を弾かないように念を押しました。
「あそこに行って琵琶を引き続けると、ついには命を落とすことになるやも知れぬ。だが一つだけお前を助ける、お前の命を助けてあげられる方法がある。これからお前の体中、頭の天辺から足のつま先まで経文を書いて進ぜよう。さすれば死者の霊はお前に気づくまい。ただ、一言でも口を開いたら、見つかってしまう。よいか、絶対しゃべってはならぬ。動いてもならぬ。よいか。」
辺りが暗くなると、生暖かい風が吹き込んできました。外で声がしました。
「芳一、芳一」
しかし、芳一は答えません。言われたとおり、じっと座っていました。
「芳一はどこにおる。誰もいないぞ。芳一はどうした。な、何だ、これは。芳一の耳のようにみえるな。よかろう、芳一の代わりに、この耳を持っていこう。」
芳一は、かわいそうに、じっと座り、からくも恐怖と痛みに耐えていました。かくして芳一の耳はもぎとられてしまいました。血に染まった芳一の顔を見た住職は声も出ませんでした。我に返ると住職は芳一に詫びました。
「お前の体の隅々まで経文を書いたつもりであったが、うかつにも耳に書くのを忘れておった。誠に申し訳ない。」
その後、平家一門の菩提を供養する法要がねんごろに営まれました。芳一は、琵琶を奏でる「平家物語」の語り手として前にも増して名高くなりました。何時しか「耳なし芳一」と呼ばれるようになりました。(2004.7.1)