
源氏物語「桐壷」〜光る君の誕生〜
むかし、むかし、平安京が当時の都であった頃のことを、今の時代の人は平安時代(794-1185)と呼んでいます。時の帝(みかど)には、たくさんの女御(にょうご)や更衣(こうい)と呼ばれる妃(きさき)がお仕えしており、帝の後継ぎを産むことが期待されていました。当時、それぞれの妃は後宮(こうきゅう)に部屋を与えられ、数人の女房(にょうぼう)にかしずかれていました。「源氏物語」の作者、紫式部もその女房の一人でした。数多くの源氏物語の巻きに、源氏の君の情事が描かれていますが、読者は物語の背景から当時の宮廷人の生活を垣間見ることができます。
ある帝の時、桐壺という美しい更衣が後宮におりました。家柄はそれほど高くはなかったものの、この更衣は他の妃より帝の寵愛(ちょうあい)を受けていました。それゆえ、桐壺は他の妃たちにねたまれ、嫌がらせをうけました。桐壺の更衣自身も他の妃たちの激しい嫉妬の恨みを受けていることを感じていました。そんなことが重なって、桐壺は病(やまい)がちになり、しばしば里に戻りました。帝も桐壷のことを心配し、一緒にいることを望みました。お二人は前世からの強い結びつきがあったのでしょうか。やがて男の御子が産まれました。それからも嫌がらせが続き、桐壺は赤児を連れて里に帰りました。
三年が経ち、桐壺は気苦労や心痛が重なり世を去ってしまいました。帝はいたく桐壺の死を悼(いた)み、食事も喉を通らない日々が続きました。
そして数年後、御子は成長し、御所(ごしょ)に戻って来ました。顔立ちの整った、聡明な若宮に成長していました。とりわけ笛や琴に秀でていました。
ある日のこと、帝は人相見に、こう言われました。
「若宮さまのお顔を拝見しますと、将来帝(みかど)になる人相をおもちですが、それを望めば御身に災いを招くことになりましょう。」
帝は御子の将来を心配しました。帝の第二子であったため、源氏の姓を与えて臣下(しんか)に落とし、災いを避けることにしました。
帝は最愛の妃であった桐壺の死後、ご気分が沈みがちでしたので、帝を気遣う人々のおはからいで、亡き妃のご容姿によく似た藤壺の宮というお方の入内(じゅだい)となったのでした。帝はまもなく美しい女性に目をとめました。あの桐壺にそっくりなものですから、その女性のおそばにいると、まるで桐壺と一緒にいるような思いになるのでした。帝はしばしば源氏の君を伴って彼女のもとを訪(おとず)れました。
ある日、帝は藤壺の宮にこう言いました。
「あなたは、この子の亡くなった母によく似ていますので、この子はあなたに親しみを感じています。あなたとこの子はまるで実の母子のようです。どうかこの子を可愛がってください。」
これを聞いて源氏の君は藤壺の宮をいっそうお慕いし、藤壺の宮も源氏の君を実の子のように可愛がりました。
源氏の君は、ほかに比べようのないほど美しい若宮でしたので、いつしか、「光源氏」と呼ばれるようになりました。
光源氏が十二歳になられた時、元服(げんぷく)の儀式が行なわれました。左大臣が加冠の儀を執り行い、帝の御内意を受け、自分の娘、葵(あおい)を源氏の君に差し出しました。源氏の君は左大臣の娘婿となったのです。
葵の上は器量もよく上品な妃ではありましたが、源氏の君の頭の中にあるのは、藤壺の宮のことばかりでした。しかし、元服されてからは、これまでのように藤壺の宮にそうたびたびあうことは許されません。それからというもの、源氏の君は込み入った感情を持って暮らしていくのでした。葵の上と暮らしつつも、藤壺の宮のような理想的なお方と一緒に暮らすことを夢みていました。(Kudos)紫式部「源氏物語」より