
賢い猿(さる)と猪(いのしし)
むかし、むかし、日本の中ほど信州という所に一人の男が住んでいました。猿回しや動物の芸を見せて暮らしていました。
ある晩のことです。男は不機嫌な様子で家に帰って来て、妻に、明日の朝、肉屋に猿を連れて行ってもらうよう言いました。何のことかわからなく、妻は夫に尋ねました。
「一体どうしたのですか。」
「あの猿も年で、芸を忘れた。棒でたたこうが、一向にうまく踊れない。もうだめだ。」
妻は、猿を哀れに思い、夫に考え直すようにお願いしましたが、無駄でした。夫の決心は変わりませんでした。
猿は、隣の部屋で二人の会話を聞いていました。自分が殺されるとわかり、こう思いました。
「何と人でなしの主人だろう。長年忠実に仕えてきたのに、余生を平穏に過ごさせてくれるどころか、肉屋に殺させるつもりだ。焼かれて、煮られて、食べられてしまう。何と悲しいかな。どうすればいいのだろう。」しばし思案に暮れました。
「そうだ。いい考えが浮かんだ。近くの森に大層頭の良い猪が住んで。彼の所に行けば、きっと相談に乗ってくれる。さっそく行って来よう。」
ぐずぐずしていられませんでした。家からこっそり抜け出すと、猪の所へ一目散にかけて行きました。
幸い、猪は家にいました。猿は悲しい身の上話を語り始めました。
「猪さん、とても頭がいいとお聞きしました。今とても困っています。私を助けられるのはあなた様だけです。主人に長年仕えてきましたが、もう年でうまく踊れません。そんな私を主人は肉屋に渡そうとしています。どうにかならないものでしょうか。頭の良いあなた様だけが頼りです。」
猪は猿のお世辞に大満足、猿を助けることにしました。しばし考えこう言いました。
「主人に子どもはいないか。」
「います。まだ赤ん坊ですが。」
「おかみさんは、朝の仕事の際、その赤ん坊を縁側に置かないか。」
「置きます。」
「よし、俺がチャンスを伺って、赤ん坊をつかんで逃げる。」
「そしたら。」猿は聞きました。
「おかみさんはパニックになるだろう。主人とおかみさんがうろたえている間に、お前さんが俺様を追いかけて、赤ん坊を助け出し、無事に親元に持ち帰る。そうすれば肉屋が来ても、お前さんを渡そうなんてことはなくなる。」
猿は猪に何度も何度もお礼を言うと家に戻りました。その晩はよく眠れませんでした。
猿の命は、猪の計画がうまく行くかどうかにかかっているからです。一番に目を覚ますと、今まさに起ころうとしていることを今か今かと待っていました。
おかみさんが起き出し、雨戸を開けて、朝の光が差し込むまで大分時間があったように思えました。おかみさんは、家の掃除や朝ごはんの用意をしている間、いつものように赤ん坊を玄関の近くにおきました。
赤ん坊は朝の日を浴びて嬉しそうに口を動かし、日が明るくなったり暗くなったりするたびに畳をたたいていました。その時です。玄関で物音がしたかと思うと、赤ん坊が大きな泣き声をあげました。お勝手から飛び出てきたおかみさんが見たものは、猪が赤ん坊を抱えて門から出て行く姿でした。おかみさんは、大声を上げて、夫がまだぐっすり寝ている奥の部屋に走りこみました。夫はゆっくりと起き上がると、目をこすり、どうしてそんなに騒がしいと妻をいさめました。
しかし、事の顛末(てんまつ)をすぐに悟り、門の外に出ました。猪はもう大分遠くですが、猿が猪を一生懸命追いかけているではありませんか。二人は賢い猿の勇敢な振る舞いに痛く感動しました。そして、忠実な猿が子供を無事に連れ戻してくれた時は、言葉では表せないうれしさで一杯でした。
「ほら。」おかみさんが言いました。「これがあなたが殺そうとした猿ですよ。猿がいなかったら、子供もいませんでしたよ。」
「今度ばかりは、お前の言うとおりだな。」主人は子供を抱き上げ家に入りながら言いました。
「肉屋が来たら帰ってもらいなさい。さあ朝ごはんだ。猿にもな。」
肉屋が来ましたが、晩御飯に猪の肉の注文を受けただけで、帰ることになりました。
それからは猿はたいそう可愛がられ、余生を平穏に暮らしました。主人から二度と打(ぶ)たれることもありませんでした。