
むじな
むかし、むかし、東京の赤坂にある坂がありました。夜は、この近辺はとても寂しい所でした。むじな(たぬき)がそこを通る人にいたずらをしたそうです。
ある晩のことです。一人の若者がその坂を通って家路に向かっていました。すると、お堀の近くで、腰を落として、ひどくすすり泣いている娘さんを目にしました。わけを聞いてみようと声をかけてみました。
細身の、おとなしそうな娘さんで、綺麗な着物を身にまとい、髪の毛は良家のおじょうさんのように結ってありました。
「娘さん、娘さん、一体どうしたんですか。どうしてこんな所で泣いているんですか。」とたずねました。
しかし、娘さんは、顔を着物の片袖で隠して、泣きつづけていました。
「娘さん、娘さん、一体どうしたんですか。どうして泣いているんですか。いいですか。ここは、あなたのような娘さんが一人でいるような所じゃありませんよ。さあ泣くのは止めて。娘さん。」
やっとのこと娘さんは、若者に顔を向けると、袖をおろしました。
「うお。」と声をあげると、若者は一目散に逃げて行きました。娘には目も、鼻も、口もなかったのです。
若者は、走って、走って、そして遠くに明かりが見えました。それは、道の脇に屋台を開いてるそば屋の明かりでした。
若者は、立ち止まると、そば屋に言いました。
「ああ、ああ、あああ、」と若者は絶叫しました。
「どうしたんですか。落ち着いて。誰かにひどい目に会ったのですか。」とそば屋が言いました。
「そうじゃなくて、見たんです。女の人を。お堀のそばで。その女には、ああ、あああ、言えません。」
「じゃ、お前さんが見たのはこんな顔かい。」と、そば屋は言うと顔をさすりました。
まるで卵のようでした。同時に明かりが消えました。(2003.12.27)