八百屋お七〜死〜

Oshichi お七は、本郷の新宅に戻ってからというもの何をする気にもなれません。吉三郎の文だけが生きていく支えです。文を見るたびに、愛しい人との幸せな日々が思い出されます。

2月14日は雪でした。八百屋八兵衛は娘に言いました。
「今日みたいな雪の日にはあまり客は来ないだろう。母さんと一緒に妹の見舞いに行って来る。帰りはきっと遅くなるだろうから店番を頼むぞ。暗くなったら戸締りをしっかりしてくれ。」
二人は、お七を一人家に残し、雪の中を出かけて行きました。
しばらくして誰かがやって来ました。
「ご免下さい。誰かいませんか。」
吉三郎の声に似ていました。お七は急いで店に出ました。
「き....ち...さま...吉-さま!」顔を見るなり、お七は吉三郎の胸に飛び込みました。
「会いたかった!お七!」吉三郎はお七をしっかり抱きしめました。
「私も!こんなに冷たくなって。」お七は吉三郎の手を取りました。「こんな大雪の中をはるばる会いに来て下さったのね。」
「お前に会いたくて、会いたくて、居ても立ってもいられなかった。」
「吉さま...外は寒いわ。さあ、中へ、私の部屋へどうぞ。」
「でも、お父さんとお母さんは...」
「出かけたわ。帰りは遅くなると言っていました。」
お七は吉三郎を部屋に連れて行きました。二人だけの時間はあっという間に過ぎていきます。2、3時間も経ったのでしょうか。それでも二人にとってはほんの2、3分に思えました。その時、戸をたたく音がしました。
「お七!お七!今帰ったよ。」
「帰ってきたわ。布団の中に隠れてじっとしていて!」お七は吉三郎を布団の中に押し込み、何食わぬ顔で戸を開けました。
「叔母さんのお加減はいかがでしたか。お元気だといいのですが。私もそのうちお見舞いに伺いますわ。」
「ああ、思ったより元気だったよ。ううっ、寒い。こんな日は早く寝るのが一番ね。おやすみ。」母が言いました。
手をこすりながら、父母は部屋に消えていきました。お七は、吉三郎が見つかってしまうのではないかと思うと体が震えました。お七も吉三郎が隠れている布団にもぐり込みました。二人は怖くて言葉はもちろん物音一つたてることもできません。互いの手をしっかり握り、だまって顔を見合わせるだけです。実際は真っ暗で顔は見えませんが、二人の気持ちは通じました。
「時が止まって朝が来ないように!」二人は願いました。
非情にも、夜が明けようとしています。
「二人が起きる前に帰らなくては。」吉三郎はさびしげにささやき、家からこっそり出て行きました。
「吉さま。また会えるかしら。」お七は吉三郎の背中越しにつぶやきました。
吉三郎は大雪の中、遠路はるばる寺まで歩いて帰りました。とてつもない疲労感をおぼえながらも、何とかたどり着きました。が、倒れこむと同時に意識を失ってしまいました。和尚さんは驚いて、すぐ医者を呼びましたが、医者にもはっきりした見立てをすることができませんでした。吉三郎は、数週間の間、生死の境をさまよいました。

3月2日(1863年)、お七は窓を開けました。冷たい風が頬に当たりました。家に戻ってからも吉三郎のことを一日たりとも一晩たりとも忘れたことはありませんでした。
「今日は風が強いわ。火事が起こったあの日もこんなようだったわ。火事...また火事が起これば、吉三郎さまの寺に行けるかもしれない。吉さまに会いたい...会いたい...また吉さまに会いたい...!」
お七は吉三郎会いたさに自分がわからなくなり、無意識のうちに自分の家に火を付けてしまいました。火が燃え始めて、はっとしました。自分のしたことが恐くなりました。家から飛び出ると、火の見櫓(やぐら)に駆け上り、気が狂ったように半鐘を鳴らして叫びました。
「火事だ!火事だ!」
近所の人々がすぐに駆け付け水をかけました。幸いにも火はほどなく消え、小火(ぼや)ですみました。それでも火付けは重罪です。即刻お七は火付けの容疑で捕えられ、南町奉行所に連れて行かれました。
お七はお奉行の前に引き出されました。
「八百屋八兵衛が娘、お七、面(おもて)を上げい!訴状によれば、そのほう、父の家に火付けをしたとあるがまことか?」
「間違いありません。私がやりました。」
「そちも存じておろう。火付けは重罪であるによって、火あぶりの刑に処される。何ゆえ火付けなどどいう大それたことをしたのか申してみよ。」
後ろ手に縛られて座ったまま、お七は顔を上げました。表情には一点の翳(かげ)りもありませんでした。
「吉三郎さま会いたさ。それだけです。でも今は後悔しています。浅はかでした。どんなお裁きにも従います。」
「う...む、たとえ小火であっても、火付けは重罪。死刑は免れぬ。さて、そちは十五であったな?」
お奉行はお七が不憫(ふびん)に思えました。若いこと、小火であったこと、初恋ゆえのこと。『十五歳以下のものは死罪にあらず島流し』、という判例を適用しようと思いました。
「いいえ、十六です。七歳の時お宮参りを済ませました。あれから九年。今は十六です。」お七は十六にこだわりました。
どうしようもありません。お奉行はお七に死罪を告げました。お七は処刑される前、市中を引き回されました。
「見て!お七よ。家に火をつけた八百屋の娘よ!」
「小火だったんでしょう。死罪にするなんてひどすぎると思わない?」
「でも付け火は大罪の一つよ。恐ろしい女だよ。」
「ところで男の方は姿を見せないね。冷たいね!」
お七を見ながら、道端の人々は好き勝手なことを言っていました。一方お七のほうは、そんな中でも毅然としていました。

3月29日(1683年)お七は品川鈴が森の刑場にて火あぶりの刑に処されました。
処刑台に向かうお七に役人が桜の枝を手渡しました。
「あの世にこれを持って行きな、お七。」
「ありがとうございます。」と微笑みました。

  世の哀れ 春ふく風に 名を残し おくれ桜のけふ(今日)散りし身は

お七の辞世の句です。そしてその後10日間さらし首になったのでした。

Ohiti さて、吉三郎は、お七があの世へ逝った時はまだ床に臥せていました。お七が死罪になったと知ったのは百日後のことです。吉三郎は境内のお七の墓に駆け付けました。
「この真新しい墓にお七が。申し訳ない。お七をこんな目に合わせてしまって。」吉三郎は墓石を抱きしめ泣きました。二人で過ごした夜、交わした契りを思い出しました。『あの世までも二人は一緒だ。』
「すぐにお前の所へ参る。お七。」ふところから匕首(あいくち)を取り出しました。
「待て!何をする。」和尚さんが匕首持つ手を叩きました。
「寺で自害するとは迷惑千番。何とそちの親に言い訳できよう。」和尚さんは怒っていました。
「その通り。お七もあんたさんが自害なさるのは望んでいないでしょう。」お七の父も吉三郎を諭しました。
「いいですか。『吉さまには私の後世(ごせ)を弔ってほしい。』これが娘があなたに残した最後の言葉ですよ。ああ!お七!」母が涙ながら言いました。

吉三郎はその後まもなく目黒の明王院にて剃髪、僧侶となり西運と名を改めました。愛しいお七の霊を慰めるため、首にさげた鉦を常に叩きながら行脚しました。長年にわたるきびしい修行の後、西運は明王院に念仏堂を建立しました。
後に、二人の悲話が歌舞伎の演目となり、二人の名は後世(こうせい)まで語り継がれました。

西運和尚の木像とお七地蔵が東京目黒の大園寺に祀られています。境内の隅には、西運の石碑と並んで、もう一体の「お七地蔵」が立っています。寺を訪れる多くの若い女性は、お七のような一途な愛を願う、とのことです。(Kudos)

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