
破られた約束
1
「死ぬのは怖くありません。」病の床に臥(ふ)した妻が言いました。「でも一つ心配な事があります。私の亡き後、誰が後添いにこの家に来るのでしょう。」
「後添いを娶(めと)ることは決してないから、この家には誰も来ない。」夫である武士は、愛する妻に言いました。
「武士として誓えますか?」妻は弱々しい笑みを浮かべて言いました。
「武士として誓おう。」夫は妻の青ざめた頬をなでながら答えました。
「そう仰(おっしゃる)なら、私をお庭に埋葬してくださいまし・・・お願いします・・・二人で植えた李(すもも)の木のそばに。前々からお話しようと思っていたのですが、もし後添いを迎えるようでしたら、私のお墓をそのような所には望まないだろうと思っていました。後添いは決して持たないと約束して下さいました・・・それ故お願いするのです。そうしてくだされば、貴方の声が聞こえ、春には花を見ることもできます。でも・・・本当にお庭に埋葬してくださるのでしょうか?」
「約束するから、もう縁起のよくない話はよしなさい。きっと治るから。」
「いえ、もうこれまでです・・・どうか私を庭に埋めてくださいまし。」
「承知した。二人で植えた李の木の下に・・・それに、墓碑を建てて進ぜよう。」
「それから小さい鈴をくださいまし。」
「鈴?」
「はい、棺(ひつぎ)に小さな鈴を入れてください・・・巡礼の者たちが持っているような鈴です。お願いします。」
「小さな鈴を入れて進ぜよう・・・他に何か望む物があったら申せ。」
「いえ、鈴だけで結構です。いつも優しいあなた。私は幸せに死ぬことができます。」
そう言うと、妻は、疲れた子供のように安らかに目を閉じました。美しい死に顔には微笑みさえ浮かべていました。小さな鈴とともに、妻はお気に入りの木の下に埋葬され、その上に家紋の入った立派な墓碑が建てられました。
しかし、一年も経たぬうちに、武士は親戚や同輩から再婚を勧められました。
「そなたはまだ若い。それに一人息子で子供もいない。武士であるからには、妻を娶り、一家を構えねばならぬ。跡継ぎもなく死んだら、誰が葬式を挙げ、誰が先祖の墓を守っていくのか?」
武士は、とうとう17<歳の娘と再婚することになり、新しい妻を心から愛しました。
2
七日間は二人の幸せを乱すようなことは何も起きませんでした。しかし、結婚して七日目の夜、夫は数日の間、家を空けることになり、妻は一人家に残りました。妻はとても不安で怖くて眠ることができませんでした。
深夜、二時頃、小さな鈴の音が聞こえてきました。一体誰が外を歩いているのだろう?鈴の音は庭から聞こえ、それが段々と近づいて来るように思えました。気がつくと、経帷子(きょうかたびら)をまとった一人の女が小さな鈴を持って枕元に立っていました。妻は起き上がることも、声を出すこともできませんでした。
その長い髪の女には、目も舌もありませんでしたが、妻にささやくように言いました。
「この家の中にいるな。私があの人の妻だ。すぐ出て行け。だが、このことは誰にも話すな。もしあの人に話したら、お前を八つ裂きにしてやる。」
妻は恐怖で明け方まで気を失ってしまいました。けれども、夫には一切話しませんでした。
次の晩も同じ時刻ごろ、鈴を持った経帷子の女が再び部屋に入って来ました。
「すぐ出て行け。だが、このことは誰にも話すな。もしあの人に話したら、お前を八つ裂きにしてやる。」
夫が戻ると、若き妻は夫の前にひれ伏しお願いしました。
「お許しください。どうか私を里に帰らせて下さい。」
「今の生活(くらし)に何か不満があるのか?」夫はとても驚きました。「私のいない間に誰かにひどい仕打ちをされたのか?」
「いえ、どなたも私にとても親切です・・・でも私があなたの妻であることは許されないことです。お暇(いとま)をいただきとうございます。」
妻は、すすり泣きながら答えました。
「一体何があったのだ。離縁したいと言うのか?」夫は驚き、声を大にしました。
「ここにいては、殺されてしまいます。」妻は強く言いました。
夫はしばし考えたのち、言いました。
「理由(わけ)を話してくれたら、離縁することもできようが、しかし、理由を聞かねば、家名に傷がつくゆえ離縁するわけにはゆかぬ。」
それを聞いて、妻は何もかも打ち明けることにしました。
「あなたに一部始終をお話したからには、あの人はきっと私を殺しに来ます。」
「お前は今神経が高ぶっている。気の毒に、悪い夢でも見たのであろう。お前とは離縁したくはない。したが、今夜も家を空けねばならぬ。安心して寝られるよう、家来二人にお前の部屋を見張らせようと思う。」
思いやり深く優しい夫だったので、妻は家に留まることにしました。
3
二人の家来は、勇敢で誠実で頑強でした。若き妻がすやすやと眠っている間、二人は碁を打っていました。しかし、二時頃、鈴の音を聞き妻は目を覚ましました。鈴の音は段々と近づいてきました。飛び起き悲鳴を上げました。しかし、部屋の中で、動くものは何もありませんでした。家来の所に飛んで行きましたが、二人は凍りついたように碁盤の前に座っているだけでした。大声をあげ、揺すぶってみましたが、二人は目を覚ましませんでした。
・・・あとで、二人が語ったところによると、「鈴の音と叫び声は聞こえました。花嫁に体を揺すられるのも、わかりました。でも身動きも口を動かすこともできませんでした。」・・・
明け方、夫が戻り部屋を開けると、若妻の首のない死体が血溜(だ)まりの中に横たわっていました。二人の家来は、碁盤の前に座ったまま眠っていました。
「おい!」
武士の大声で、二人は正気に戻り、むごたらしい光景に唖然(あぜん)としました。
首は部屋にはありませんでした。血が部屋から庭へ、点々と滴り落ちていました。驚くなかれ、先妻の幽霊が片手に鈴、もう一方の手に首を持って墓の前に立っていました。
家来の一人が刀を構え、幽霊めがけて切りつけました。幽霊は地面に崩れ落ちました。(kudos)
小泉八雲「日本雑録:破約」より