
塞翁が馬
むかし、むかし、国境(くにざかい)の村に老人とその息子が住んでいました。老人が飼っている栗毛の馬は穏やかで、頭がよく、そして力もちでした。重い荷物も、大きな馬車もなんのその。村人たちにはいつもうらやましがられていました。
「あのおじいさんの馬は実にいい馬だ!」
ほめるだけでなく、時には借りて仕事を手伝わせることもありました。
ある日のことです。馬を馬小屋から出そうと行ってみると、様子が変です。おじいさんが馬小屋に近づいても、いつものいななきが聞こえてきません。中はシーンと静まり返っています。
「馬が逃げた!」
その知らせはまたたく間に村中に広まりました。仲間や近所の人がやって来て、口をそろえてこう言いました。
「気の毒だなぁ。馬がいなくなって。実にいい馬だった。がっかりだよな。森の中にまだいるかも知れんぞ。俺たちも探すのを手伝うよ。じゃなかったら、誰か馬のうわさを聞いたやつが盗んだのかも知れんぞ。もしそうなら番所に届けるんだな。」
おじいさんは落ち着いていました。
「心配ご無用。その内きっといいことがあるでしょう。」
おじいさんを励ましに来たのに、まるで他人事(ひとごと)のようで、みんな腹を立てました。
数日後、おじいさんは馬のいななきが森の中から聞こえてきたような気がしました。さっそく森の中に入ってみると、何と、いなくなった馬が別の馬、野生の馬数頭と一緒にいるではありませんか!おじいさんの馬についてきたのです。どの馬もすばらしい毛並みでした。
「ひい、ふう、みい・・・」全部で十一頭です。でもおじいさんは、一頭も家に連れて帰りませんでした。代わりに一頭ずつ木につなぎました。
村の衆はすぐおじいさんの馬のことを話題にしました。おじいさんのところへ行くとこう言いました。
「信じがたいことだ。お前さんはなんて運がいいんだ。今や村一番のお金持ちじゃないか。」
おじいさんは、冷めた声で言いました。
「お言葉感謝いたします。でもこれで幸せになるわけではありません。もしかすると、良くないことが近々起こるかもしれません。」
おじいさんは息子に注意しました。
「あの野生の馬は危険だ。人を乗せたことがない。まずは馴らすことが肝心だ。家の馬はいいが、間違ってもあれに乗ってはいかん。」
でも野生の馬を乗りこなしたいという気持ちは強くなるばかりでした。
ある日のこと、息子はついに我慢できず、その一頭に乗ってしまいました。
「どう、どう。」馬を御(ぎょ)しながらむちを入れた途端、投げ出されてしまいました。馬はかん高い声で啼くと、後ろ足で棒立ちになり、やがて走り去ってしまいました。若者は足の骨を折って動けません。
そのことはすぐに村中に知れ渡りました。村人は言いました。
「ひどい目にあったな。まさかあんなことになるとは。息子さんは本当に気の毒だな。」
おじいさんは極めて冷静に答えました。
「お言葉感謝いたします。でも息子のことは心配しておりません。いいことがあるかもしれません。」
数週間後のことです。領主と隣国との間で争いが起きました。村の若者は全員、戦いにかりだされました。しかしおじいさんの息子だけは免れました。
「いやー、お前は使い者にならん。家に帰ってよし。」
壮絶な戦いでした。悲しいことに、村の若者の多くが死んでしまいました。
村人たちは口々におじいさんのことを話しました。
「何と運のいいおじいさんだ!じきに息子も怪我が治り、また働けるようになるだろう。」
おじいさんには、未来を予知する不思議な力があると信じられました。
この話は鎌倉時代に書かれた古今著問集によるものです。「人間万事塞翁(じんかんばんじさいおう)が馬。」という格言があります。中国王朝漢(かん)の時代に書かれた唯南子(えなんじ)の話をもとに元(げん)の時代のある僧侶がその格言を考えました。この話を読んで、おそらく鎌倉時代の人が日本人向けに書き直したのでしょう。(Kudos)