
目黒のさんま
江戸時代、幕府は江戸にありました。諸大名は江戸と領地を一年ごとに行き来して暮らさなければなりませんでした。
秋のよく晴れた日、ある若いお殿様が家来数人を連れて、気晴らしに遠乗りに出かけました。ご多分にもれず世間知らずのお殿様でした。江戸郊外の目黒に来ると、お殿様は馬から下り、家来にこう言いました。
「もう馬は飽きた。その方たちと走り比べがしたい。予に勝った者には褒美を取らせる。」
「位置について。用意はよいか。それ!」
主君のご命令ゆえ、さからうことはできません。お殿様と家来達は走り出しました。お殿様はわき目もふらずどんどん野原を走って行き、その後を家来達が、ハアハア息を切らしながら、追いかけました。
「誠に情けない!見てみろ!わが殿はもう切り株に座ってこちらを見ておられる。」
「遅いではないか!」お殿様は誇らしげです。
「ところで、ここは何と申す所じゃ。」
「ここは目黒という所でございます。」
すると近くの民家から魚を焼くかぐわしい匂いが漂ってきました。
「うむ、うまそうな匂いだ。走った後の空腹は格別だ。」と、お殿様。
「このあたりで誰か魚を焼いているのだな。」
「そうだな。誰かさんまを焼いているに違いない。」家来達は小声でひそひそ話しました。
「さんまとな。予は生まれてこの方そのような名は聞いたことがない。」と話を小耳にはさんだお殿様が尋ねました。
「魚の名でございます。秋のさんまは脂(あぶら)が乗っていてたいそう風味があります。下魚(げざかな)でございますゆえ、お殿様が召し上がるものではございません。」
「余はさんまを食(しょく)してみたい。はよう持って参れ。」
家来達は、七輪の炭を団扇(うちわ)でやけにあおいでさんまを焼いている年寄りを見つけました。
「済まぬことだが、あちらに座(ざ)しておられる我が殿が、その方のさんまをいたくお気に召されてな。食してみたい、と仰せられる。一匹分けてもらいたいのだが。」
「お安い御用で。どうぞ、どうぞ。」
お殿様は生まれて初めてさんまを食べました。さんまの香ばしい匂いと醤油の味にご満悦です。
「うまい!このような美味なる魚は初めてじゃ。そのものに過分に褒美を取らせよ!」
あの遠出以来、お殿様は、一日たりともさんまの味と匂いを頭に思い浮かべない日はありません。
当時、お殿様が食べる魚といえば鯛(たい)のような高級魚だけでした。「魚の王様」として知られ、赤く、丸みを帯びた魚体に大きな目がついていました。さんまという魚を知ってしまったお殿様は、さんまに恋こがれていました。細身の黒い体の小さな目に。
「さんまが食べたい。もう一度、さんまが食べたい。」お殿様の口癖でした。
家来達はお殿様の願いを悟り、日本橋の魚河岸から最上級のさんまを取り寄せました。
さんまは余分な脂(あぶら)を抜くため十分蒸され、お殿様の喉に刺さってはいけないと、毛抜きを使って小骨も一本残らず抜かれました。
「殿、ご注文のさんまでございます。ご賞味下さい。」
さかなを見て、お殿様は、
「何?これがさんまと申すか?さんまは黒く焦げておった。これは違う魚であろう。」
お殿様は匂いをかぎました。ほのかにさんまの匂いがしました。
「ふう・・・む。まさしくさんまの匂いじゃ。」
お殿様は箸でちょっとつまむと一口召し上がりました。美味しくありません。
「これは本当にさんまか?」お殿様は首を傾(かし)げました。
「まさしくさんまに相違ございません。」
「ふーん、して、このさんま、いずれより取り寄せたのじゃ。」
「日本橋の魚河岸にございます。」
「は、そうか。それはいかん。さんまは目黒にかぎる。」(Kudos)
2009年9月9日、東京、JR目黒駅近くで「第14回目黒さんま祭り」が開かれました。古典落語「目黒のさんま」に由来し、約六千匹の焼き秋刀魚が用意され、無料で来客に提供されました。