走れ、メロス!!!(下)

ふと耳もとに、川の流れが聞こえてきた。メロスは、そっと頭をもたげ、耳を澄ませて聞いた。すぐ足元から水が流れているようだ。よろよろと立ち上がると、岩の割れ目から水が流れ出ているのがわかった。メロスは、身を屈(かが)めて、水を割れ目からすくい、一口飲むと、ふーと安堵のため息をついた。メロスは、夢から覚めたような気分がした。
― 歩ける!城に戻ろう。―
肉体的疲労が薄らぐと、わずかな希望が生まれた。自らの名誉を守るため、我が身を殺して義務を遂行(すいこう)しよう。沈みゆく太陽の光があたり、木々の葉や枝が輝いていた。
― 日没までには、まだ幾分時間がある。城に留(とど)まっている友は、何の疑いもなく、じっと、静かに、私の帰りを待っている。私は信じられている。私の命など大したものではない。自分の行為を死んで詫びるような私利私欲の人間ではない。
友の信頼に報いなければならない。信じられているのだ!私は信じられているのだ!あの悪魔の誘惑は、夢だ、悪夢だ。忘れろ!体が疲れきっている時は、たまたま悪夢を見るものだ。メロス、お前の恥ではない。お前は、まだ真の勇者だ。立ち上がり、再び走れ。ありがたい!私は名誉ある人間として死ぬことができる。ああ、太陽が沈んでいく。どんどん沈んでいく!止めてくれ、ゼウスさま!私は生まれてからずっと正直者だった。正直者として死なせて下さい。―
メロスは風のように走った。通りの群衆の中を突き進み、野原で酒宴の最中の人々の間を駆け抜け、驚かせ、犬を蹴飛ばし、小川を跳びこえ、メロスは、徐々に沈みゆく太陽の十倍の速さで走った。
旅人の一行を走り抜ける一瞬、メロスは不吉な会話を耳にした。
「あの男はもう絞首台に上げられたに違いない。」
― ああ、その男!その男を救うために、私は必死に走っている。その男を死なせてはならぬ。急げ、メロス、遅れてはならぬ!王に愛と誠の力を見せてやれ。見かけがどうであろうと構わぬ。―
メロスは、ほとんど裸同然であった。息も絶え絶えであった。二、三度、血を吐いた。
― 見ろ!遠くに塔が見える。―
ようやく夕陽に照らされた、シラクスのまちの塔が見えた。
「ああ、メロス様!」
呻(うめ)くような声が、風にのって聞こえてきた。
「誰だ?」メロスは、走りながら尋ねた。
「私は、あなたの友だちのセリヌンティウス様の弟子です。」
メロスを追い駆け、その若い石工は言った。
「もう間に合いません。無駄です!走るのをやめて下さい!もうあの方の命を救うことはできません。」
「いや、救える。陽はまだ沈んでいない!」
「もう、あの方が処刑される頃です。間に合いません。あなたをお怨(うら)み申し上げます。もう少し早く来るべきでした。もうほんの少し早く!」
「救える。陽はまだ沈んでいない!」
メロスは、胸が張り裂ける思いで大きな夕陽を見つめていた。メロスには走るしかなかった。
「止(や)めて下さい!走らないでください!あなたの命の方が今は大切です。あの方はいつもあなたを信じていました。あの方は絞首台に引き出されても冷静でした。王があの方をからかっても、メロスは必ず来ると言っていました。あの方には確固とした信念があるようです。」
「だから私は走っているのだ。私は信じられているから走っているのだ。間に合うかどうかは問題ではない。命などもどうでもよい。私は、何かもっと恐ろしく大きなもののために走っているのだ。ついて来い!」
「ああ、あなたは気が狂ったのですか。なら、全力で走って下さい。もしかすると間に合うかもしれない。走れ!」
陽はまだ沈んでいなかった。メロスは死力を尽くして走った。メロスの頭は空っぽであった。考えることは何もなかった。メロスは、未知の大きな力に引かれるかのように走り続けた。太陽が地平線上に半ば沈みかけ、残光が消え失せようとした時、メロスは風のごとく刑場に駆け込んだ。
「待て!その男を殺すな。メロスは戻った。約束通り、戻ったぞ!」
メロスは、大声で刑場の群衆に向かって叫んだ。しかし実際にはしわがれ声が出ただけで、メロスが戻って来たことには誰も気づかなかった。
磔柱(はりつけばしら)がすでに立てられ、縄で縛られたセリヌンティウスが釣り上げられようとしていた。
それを見て、メロスは最後の勇気を絞り出し、濁流を押し進むかのように、群衆をひじで押し分け進んで行った。メロスは、叫んだ。
「戻ったぞ、刑吏!吊るされるのは私だ、メロスだ!その男を人質にしたのは私だ。」
メロスは、かすれた声で精一杯叫んだ。ついに磔台にたどり着いた時、セリヌンティウスは少しずつ釣り上げられていた。メロスは、友の足にしがみついた。
メロスの思いがけない出現に群衆はどよめき、口々にわめいた。
「いいぞ、よくやった!」
「降ろしてやれ!」
セリヌンティウスの縄はとかれた。
friend 「セリヌンティウス。」メロスは、泣きながら言った。「思いっ切り、頬を殴れ。途中で一度悪い夢を見た。君が殴ってくれなければ、私は君を抱きしめることは出来ない。さあ、殴れ!」
セリヌンティウスは、全てわかっているかのように頷き、メロスの右頬を思いっ切り殴った。その大きな音が刑場に響き渡った。そしてセリヌンティウスは優しくメロスに微笑んだ。
「私を殴ってくれ、メロス!私が君を殴ったように、私の頬を思いっ切り殴ってくれ。この三日の間に、一度だけ君のことを疑った。生まれて初めて君のことを疑った。君が殴ってくれなければ、私も君を抱きしめることはできない。殴ってくれ!」
メロスは、腕にうなりをつけて友の頬を殴った。
「ありがとう、友よ。」
共に、感謝の言葉を口にして、ひしと抱き合い、嬉しさのあまり、号泣した。
群衆の中からもすすり泣きの声が聞こえた。群衆の後ろから二人をじっと見ていた王の顔は上気して赤らんでいた。やがて、王は静かに二人に近づき、こう言った。
「私を負かすという望みは叶った。お前たち二人は勝ったのだ。信実は虚しい妄想ではなかったのだ。私も仲間に入れてくれ。私の願いを聞いて、仲間に入れてくれ。」
群衆から歓声が起こった。
「万歳!王様万歳。」
一人の少女が、メロスに緋(ひ)色のマントを手渡した。メロスは戸惑った。セリヌンティウスはメロスに、何も身にまとわず立っていることを教えてやった。
「メロス、君はまっ裸だよ。マントを着たほうがいいよ。このきれいな娘さんは、君の裸をみんなが見ているのでいらついているのだ。」
勇者は恥じらいで顔が赤らんだ。(kudos) イラスト:ピクトグラム無料素材

原作者:太宰治(1909-1948)

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