
走れ、メロス!!(中)
メロスは一晩中、一睡もせず、40キロ(十里)の道を急ぎに急いだ。ようやく村に着いたのは翌朝であった。太陽はすでに高くのぼり、村人は畑で働き始めていた。メロスの十六歳の妹は、兄の代わりに羊の世話をしていた。兄がよろめきながら歩いて来るのを見て妹は驚いた。メロスは疲れ切っていた。
妹は兄に尋ねた。
「どうしたの?」
「何でもない!」メロスは妹に微笑(ほほえ)んだ。「まちにまだ用事がある。またすぐにまちに戻る。お前の結婚式は明日だ。早い方がいい。」
妹は、それを聞いて顔を赤らめた。
「うれしそうだな。お前が結婚式に着る綺麗な服を買ってきた。結婚式は明日になりました、とみんなに知らせておいで。」
メロスはよろめきながら家に戻ると、祭壇を設け、結婚式の準備をした。そしてベッドに倒れ込むと、深い眠りに落ちた。
目が覚めたのは夕方であった。メロスは、妹の花婿の家に急ぎ、やむなき事情で、結婚式を明日にするよう花婿に頼んだ。花婿は、葡萄の収穫後の結婚式を考えていたので、まだ何も用意をしていない、と首を縦にふらなかった。しかしメロスは、「待てないのだ。私には明日しかないんだ。」と言い張った。
二人は夜明けまで話し合い、メロスは、やっと花婿に明日の結婚式を承諾させた。
結婚式は真昼間(まっぴるま)に挙(あ)げられた。新郎新婦が、客人の前で誓いの言葉を終えようとした頃、空は真っ黒な雲に覆われ、雨が降り始め、まもなくどしゃ降りになった。
結婚式に出ていた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、そのうち、メロスの狭い家で、飲んだり、歌ったり、踊ったり、真夜中まで祝宴を楽しんだ。メロスは満面に笑みを浮かべ、しばし王との約束を忘れた。この大勢の人たちと幸せに暮らしたいと思った。ずっと家にいたいと思った。しかしメロスは自分の心に鞭打った。明日の日没までには十分な時間がある。メロスは仮眠をとってから、まちに戻る決心をした。目が覚める頃には明るくなっているだろう。
メロスは妹に言った。
「結婚おめでとう!私は、疲れたから一眠りする。目が覚めたらまちに戻る。大事な用があるんだ。たとえ私がいなくても、お前にはもう優しい夫がいる。私が一番嫌っていることは、人を疑ったり、嘘を言ったりすることだ。分かっているな。お前と夫の間に隠し事があってはいけない。それだけはお前に言っておきたい。お前は自慢の妹だ。」
妹は微笑み頷(うなず)いた。次にメロスは、花婿の肩を叩いた。
「私には、妹と数十頭の羊の他に、これと言った物はないが、お前に全てやろう。お前はもう私の弟だ。誇りに思ってくれ。」
メロスは宴に列席した村人たちと、にこやかに挨拶を交わすと、宴を離れ、羊小屋で横になった。すぐにメロスは死んだように眠った。
メロスは、翌日の薄明かりの中で目を覚ますと、跳び起きた。
―いけない! 寝過したか?いや、まだ時間は十分ある。いまここを出れば、約束の時間には城に着けるだろう。王に民の誠実と信頼のほどを見せてやる。そして笑って磔台についてやる―
メロスはゆっくりと身支度を始めた。雨も小降りになったようだ。メロスはぶるんと両腕を振ると、雨の中を矢のように走り始めた。
―私は今晩殺される。殺されるために走っている。身代わりの友を救うために走っている。王のねじ曲がった本性を打ち砕くために走っている。走り続けなければならない。そして殺される。若いとはいえ、自分で自分の名誉を守れ。さらば、わが故郷よ!―
メロスにとって故郷を去ることはとても辛いことであった。数回立ち止まろうとした。メロスは大声で自分を鼓舞した。野を越え、森を抜けて、隣村に着く頃には、雨も止み、太陽が高く昇り、暑くなってきていた。メロスは拳(こぶし)で汗を拭(ぬぐ)った。
―ここまで来れば、もう大丈夫だ。故郷にも未練はない。妹も夫と幸せに暮らすだろう。心配することは何もない。まっすぐ城に向かうだけ。時間はたっぷりある。急ぐ必要はない。ゆっくり歩いて行こう―
メロスはいつもの楽天的な気持ちにもどり、美しい声で歌い始めた。
メロスに予想もしなかった災難が降りかかったのは、道半(みちなか)ばに来た時であった。メロスは突然立ち止った。昨日の大雨で、川の水源はあふれ、濁流が、溢れんばかりに一気に下流へと流れた。橋は押し流され、橋げたは木っ端微塵(こっぱみじん)に壊された。
メロスは呆然と立ちすくんだ。周囲を見渡し、声を限りに叫んだ。しかし、舟も漕ぎ手も見えない。増水した流れで、川は、まるで海のようになっていた。メロスは涙を流し、両手を挙げて神に願った。
「どうか荒れ狂う流れを静めて下さい。時が刻々と過ぎていきます。すでに昼どきです。日没までに城に戻ることができなければ、私の最良の友は、私のために殺されてしまいます。」
濁流はさらに膨れ上がり、波が打ち寄せていた。メロスには一刻の猶予もなかった。メロスは、川を泳いで渡る覚悟を決めた。
―神々もご照覧あれ!濁流を打ち負かす、わが愛の強さと信義の厚さをお見せしよう
―
メロスは、川に飛び込み、百匹の大蛇のように怒り狂う波と激闘した。全身の力を腕に込め、打ち寄せ渦巻く流れを掻きわけて泳いだ。激流との必死の戦いに、神もメロスを哀れに思し召(おぼしめ)したに違いない。メロスは、何とか木の幹にしがみつくと、対岸にたどり着いた。
―よかった―
メロスは、馬のように体を振って水を払うと、道を急いだ。一刻たりとも無駄にできなかった。太陽が西に沈みかけていた。
メロスはあえぎながら山道を登り終え、ほっとした時、山賊の一団が突如として飛び出してきた。
「待て!」
「何か用か?私は、日が暮れる前に城に戻らなければならない。見逃してくれ!」
「駄目だ。持ち物を全部置いて行け!」
「命の他に何も持っていない。その命さえ王にやることになっている。」
「その命をよこせ!」
「命をよこせ?ということは王の命令で私を待っていたのか。」
山賊たちは、ひとことも言わず、一斉に棍棒を振り上げた。メロスは、ひょいと身を屈(かが)め、素早く一人に跳びかかると、棍棒を奪い取った。
―許せ、正義のためだ!―
メロスは、猛然と三人に襲いかかり、叩きのめした。残りの者がひるんでいるすきに、メロスは一目散に峠を駆け下りた。午後の灼熱の太陽に照らされ疲労困憊(ひろうこんぱい)し、幾度か目まいを感じた。メロスは、気を取り直し、よろよろと二、三歩踏み出したが、膝ががくっとなり、野原に倒れ込んだ。もはや立ち上がることすらできず、空を見上げ、落胆の叫びを上げた。
―あぁ!メロス!真の勇者、メロスよ、お前は濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も打ち倒し、鉄砲玉のようにここまで走ってきたではないか! なのに疲れ果て、ここで動けなくなるとは何と情けないことだ!
メロスは、自分を叱咤(しった)した。
―お前の最良の友は、お前を信じ、まもなく殺される。お前は名うての不信の徒になる。それこそ王の思う壺ではないか。―
メロスの体力は萎(な)え、もう一寸(ちょっと)も前に進めなかった。メロスは草原に仰向けになった。身体の疲労は、その心をも損なう。
―それが何だって言うんだ―
メロスのような勇者には相応しくない邪心が生まれ始めた。
―十分頑張ったではないか。約束を破るつもりはなかった。神々もご照覧だ!できる限りのことはやろうとした。決して不誠実な人間ではない。
あぁ、できるなら胸を切り開き、赤い心臓を見せてやろう。愛と真実だけで鼓動しているこの心臓を。私は何と不運な人間だ!みんなきっと私
のことを嘲笑(あざわら)うであろう。私の家族も笑われるであろう。私は友を裏切った。途中で地面に倒れるのは、最初から何もしないのと同じである。どう違うと言うのだ。これが私の運命(さだめ)
かもしれない。セリヌンティウス、許してくれ!君は、いつも私を信じてくれた。私も、君を裏切ったことはない。私たちは、本当に最良の友であった。
二人の心に疑惑の雲を抱(いだ)いたことはなかった。今、君は一心に私を待っているに違いない。ありがとう、セリヌンティウス。君は、全く私を疑わない。私にはとても耐えられない。友情こそ、この世で一番誇るべき宝である。セリヌンティウス、私は走った。君を騙そうなんていうつもりは微塵(みじん)もなかった。駆けて、駆けてここまでやって来た。山賊の包囲からも抜け出し、一気に峠を駆け下りた。
私だからできたのだ。あぁ、これ以上、私に望まないでくれ。放っておいてくれ。私は負け犬!私は怠け者!嘲笑え!王は私の耳元で囁いた。遅れてくれば、お前を助けてやろう。だが、お前の身代わりは殺す、と。私は、王の卑劣さを憎んでいた。だが今や王の言うままである。遅れて王のもとへ行くであろう。王はそれ見たことかとほくそ笑み、私を解放するであろう。そんなことになれば、こんな風に苦しむより死んだ方がましである。私は、永久に裏切者となろう。この世で最も不名誉な人間になる。
セリヌンティウス、私は生きていられない。自らの手で命を絶つつもりである。君は私を信じる唯一の人間である。いや、それも私の自己満足かもしれない。さもなくば悪党として生き延びてやろう。村に帰れば、家もある。羊も数十頭飼っている。妹夫婦が私を村から追い出すことはないであろう。正義、正直、愛、何とつまらないものだ!人は生きるために他人を殺す。それが人間のお決まりのやりかたではないか。全てが馬鹿馬鹿しく思える。私は、不名誉な裏切り者だ。何がどうなっても構うものか。ああ、悲しや!―
メロスは、四肢を投げ出し、まどろんだ。(kudos)
イラスト:ピクトグラム無料素材(下)に続く
走れ、メロス! (上)
走れ、メロス!!!(下)