
曾根崎心中(天満屋・道行の段)
登場人物 徳兵衛(25歳)おじの醤油屋で働く手代。
お初 (19歳)天満屋(女郎屋)で働く女郎。
九平次(25歳位)徳兵衛の友人、油屋の主人。
女郎 甲 と 乙
時と場所 江戸時代(18世紀)、大阪
第2幕 天満屋の段
(お初の同僚二人がうわさ話をしている。)
女郎甲: 徳兵衛さんが何かまずいことをして、友達仲間に蹴ったり、殴られたりしたそうよ。
女郎乙: あやうく命を落とすところだったって聞いたわ。
お初: 徳兵衛さんの話はやめて下さい。そんなこと全部うそです。徳兵衛さんは生きています。あの人は悪いことなんて何もしていません。
(お初の目には涙があふれている。ふと愛しい人の姿が目に入る。徳兵衛のもとへ駆け寄りたいが、部屋には同僚の目がある。)
お初: 気分がすぐれないわ。外の空気を吸ってくるわ。
(お初は部屋からこっそり出ると、徳兵衛のもとに駆け寄る。徳兵衛は片脚を引きずっている。)
お初: まだ痛むの。あなたのうわさでもちきりだわ。
徳兵衛: まんまと罠(わな)にはめられた。もがけばもがくほど、身動きができなくなる。万事休すだ。生きる希望も消え失せた。あんたに永久(とわ)の別れを告げに来た。
(徳兵衛は涙ながらに告げる。二人は中から「お初」と呼ぶ声を耳にする。)
お初: おかみさんだわ。ここに長居はできないわ。ついてきて。私の言うとおりにして。
(お初は徳兵衛を着物のすそでかくし、縁側の下に導く。お初は縁側に腰掛け平静を装う。)
お初: 戻りました。気分がよくなりました。
(九平次と仲間が部屋に飛び込んでくる。)
九平次: よう、お初。客がつかなかったのか。お前の相手をしてやるぞ、どうだ。俺が嫌いか。おや、何か言いたそうだな。お前の彼氏が偽の証文と、無くした判子で俺をだまそうとした。奴がこれと反対のことを言っても信じるなよ。
(徳兵衛は縁側の下で怒りおののいている。お初は、徳兵衛が怒りのあまり飛び出してくるのを恐れて、足のつまさきで徳兵衛をなだめる。)
お初: うそを言っているのはあなたの方じゃありませんか。徳兵衛さんと私は長い付き合いですもの。今では徳兵衛さんは私に何でも話してくれるわ。私たちには何の秘密もありません。あなたこそ徳兵衛さんをだましたのでしょう。残念ながら、徳兵衛さんは無実を証明する手立てが見つかりません。私には徳兵衛さんの気持ちが手に取るようにわかります。きっと、もう死ぬしかないと思っているでしょう。
(お初は泣く。九平次を言い込めているが、実は徳兵衛に自分の胸のうちをあかしている。徳兵衛はお初の足首を掴むと、唇をあて、死ぬ覚悟ができていることを示す。)
お初: わかった!わかったわ!私たちの辱め(はずかしめ)を払拭(ふっしょく)してくれるのは死ぬことだけ。あなたのいない生活なんてもう考えられない。私もあなたと一緒に死ぬ覚悟はできています。
(お初は大声で話す。涙が頬を伝わって流れる。九平次は気味が悪くなって仲間に声を掛ける。)
九平次: 帰るぞ。ここは陰気くさい。飲み屋で一杯やるぞ。
(彼らが立ち去ると、天満屋の亭主と女将(おかみ)が女郎たちに灯りを消して寝るよう言う。)
お初: 旦那さん、女将さん、それにお仲間の人たちに会うことは、おそらくもうないでしょう。丑の刻だわ。死出立(しにでだち)の白無垢に着替えるわ。
(お初は静かに階段を下りる。徳兵衛は入り口のわきに立っている。お初は徳兵衛の手を取り、門口(かどぐち)まで連れて行く。二人は見つめ合い、共に死ぬさだめにむせび泣く。)
第3幕 道行の段
徳兵衛: この橋の上で、夫婦(めおと)の永久(とわ)の誓いを立てよう。
お初: 誓います。お初は永久(とわ)にあなたの伴侶となります。
徳兵衛: 日が変われば、まち中私たちのうわさでもちきりでしょう。夜が明けぬうちに命を絶とう。
(曾根崎天神の森の中)
お初: 私が十九で、あなたが二十五。二人ともまだ若い。でも私たちの絆はどんなものより強いわ!あの世で生まれ変わります。不思議なことに、こんな不運なめぐり合わせの年なのに、お初は幸せなんです。だってあなたと一緒に死出の旅に出られるのですから。
(二人は天神のうっそうとした森の中にいる。暗闇で何かがきらめく。)
お初: あら!何かしら。
徳兵衛: 人魂だよ!今宵二人だけで死ぬのかと思ったら、もう誰かが死んだのさ。さあ、急ごう。ぐずぐずしてはいられない。
(二人は、手に手を取って、暗闇を進む。)
徳兵衛: さあここだ。死出の旅路につくのにはもってこいの場所だ。
お初: あなたと一緒に死ねるなんて何と素晴らしいことでしょう! 道中あなたとはぐれないようかみそりを持ってきたわ。
徳兵衛: そこまで考えてくれるなんて、あんたは最高だよ!私たちは心中の手本だ。
お初: さあ、始めて。
(徳兵衛は、お初が動けないように彼女の帯で木にしっかり縛り付ける。お初は徳兵衛の目を見つめる。徳兵衛もお初を見つめ返す。二人は涙にむせぶ。)
徳兵衛: これで現世の惨めな生活ともお別れだ。私が子供の時、両親は亡くなった。おとう、おかあ、今行くからな。
お初<: いいわね。私の両親はまだ健在だけど、もう何年も会ってないわ。夜が明ければ、二人は私たちの心中の知らせを耳にするでしょう。どんなに悲しむことでしょう!おとっつぁん、おっかさん!これでお別れです。私、気持ちの整理がつきました。この世にお別れの時が来ました。ひと思いにお願い!・・・南無阿弥陀仏・・・
(徳兵衛は懐刀(ふところがたな)を抜き、何度かためらいつつも、お初の胸を一突きする。)
徳兵衛: 南無阿弥陀仏!
(徳兵衛は刃を深く深く押し込む。お初の断末魔(だんまつま)の苦しみは筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたい。)
徳兵衛: あんたと一緒に行くぞ。
(徳兵衛は、お初の手中にあったかみそりを自分の喉に押し当て、ひとねじりする。徳兵衛は目がかすみ、二人は息絶える。)(Kudos 作:近松門左衛門)
第1幕