
杜子春(後半)
4 ふたりは、まもなく山の大きな一枚岩のうえに降りました。そこは、かなり高いのでしょう。手が届くほど近くに北斗七星が瞬いていました。聞こえてくるのは絶壁の松の木々に打ち付ける風の音だけでした。
老人は杜子春を岩の上に座らせました。
「私は仙女の所に行く用がある。お前は、ここに座って私の帰りを待っていなさい。
私がいなくなると、色々な悪霊が出てきてお前を誑(たぶら)かそうとするであろう。何が起きても、口を開いてはならない。うかつにも声を出せば、お前は仙人にはなれないであろう。天と地がひっくり返っても、声を出してはならない。」
「分かりました。命にかけても、黙っています。」
「それを聞いて安心した。では、出かけるとしよう。」
老人は再び竹の棒にまたがると、夜空をまっすぐ飛んでいき、まもなく見えなくなりました。
若者は一人、岩の上に座り星を見上げました。1時間ほどすると、どこからともなく声が聞こえてきました。
「おい、そこに座っているのは誰だ。」
若者は、仙人に言われたように、じっと黙っていました。するとまた同じ声が彼を威嚇しました。
「答えないと、命がないぞ!」
若者は、もちろん答えるつもりはありません。すると大きな虎が突然岩の上に飛び降りて来て、若者に向かって吠えました。と同時に細長い白蛇が、舌をぺろぺろ出して崖を這い下りてきました。
若者は、平静を保ち、じっと黙って座っていました。
虎と蛇は、同時に獲物に飛びかかりました。若者が、殺される、と思った瞬間、虎も蛇も消え去りました。若者は、今度は何が起こるのだろう、と気が気ではありませんでした。
すると、次には突風が吹き、空は黒雲に覆われました。稲妻が暗黒の空にきらめき、もの凄い雷鳴が頭上に轟くと、滝のように雨が降ってきました。黒雲から閃光が走り、頭上に落雷しました。若者は目を閉じ、岩の上に突っ伏しました。
目を開けると、雨は止み、山の上には北斗七星が再びきらめいていました。
若者はほっとして、額の冷や汗をぬぐいました。
突然、金色の鎧(よろい)をまとった背の高い武将が目の前に現れ、若者の胸に鉾先(ほこさき)を向け、重々しく言いました。
「こら、名をなのれ。わしはこの山の住人である。直ちに答えよ。さもなくば、命はないぞ!」
若者は、老人の言いつけ通り、黙ったままでした。
「答えぬのか。よかろう。突き殺してくれる。」
若者は、口を開きません。
「答えぬな。これは脅しではない。本当にお前を殺すぞ。」
武将は、そう言うと、若者の胸を突き刺しました。若者は絶命しました。
5 若者の魂は、岩の上に横たわった肉体から抜け出し、地獄に堕ちていきました。
しばらくすると、若者は立派な王宮の門にやって来ました。鬼達が若者を、閻魔様の所へ連れて行きました。閻魔様は、漆黒の服を身に着け、黄金の冠を戴いていました。
「何故(なにゆえ)あの山の一枚岩に座っていた。」閻魔様が尋ねました。
若者は、老人の、何が起きても、口を開いてはならない、という言葉を忘れませんでした。
「お前はどこにいると思っているのだ。即刻返事をせぬと、地獄の苦しみを味わうことになるぞ。」
閻魔様は、口を固く結んでものを言おうとしない杜子春を見て、鬼達に命じました。若者を剣(つるぎ)の山や血の池、灼熱地獄や極寒地獄に連れて行き、ありとあらゆる責め苦を与えるようにと。
若者は、胸を剣で突き刺され、顔を火で焼かれ、舌を抜かれ、皮膚をはがされ、体を熱湯で煮られ、脳みそを毒蛇に吸い取られ、目を熊鷹につつかれたりもしました。
それでも若者は一言も発しませんでした。鬼達は、若者を閻魔様の所に連れ帰りました。
「この男は、何をされても一言もしゃべりません。」
閻魔様は、しばしのあいだ眉をひそめていましたが、鬼に命じました。
「この男の両親は畜生道に堕ちている。直ちに連れて参れ。」
しばらくして閻魔様の所へ二頭の畜生が連れ出されました。杜子春は我が目を疑いました。体こそ痩せこけた馬に変わってはいますが、その顔は紛れもなく父と母です。
「どうしても山の岩の上に座っていた理由(わけ)を白状しないというのなら、お前の代わりに両親を痛めつけるぞ。」閻魔様が言いました。
それでも若者は一言もしゃべりません。
「強情者め!親が地獄の苦しみを味わうというのに、お前には何のかかわりもないと言うのだな。」
閻魔様は声を張り上げて鬼達に命じました。
「この二匹の畜生を、肉も骨も砕けるまで打て。」
「かしこまりました!」一斉に答えると、鉄の鞭で容赦なく打ち始めました。
二頭の馬に変わり果てた若者の両親は、鞭の責め苦にもがき、血の涙を流し、か細くいななきました。
「まだ白状する気はないか。」
閻魔様は、手を挙げて鬼達の鞭打ちの手を止め、もう一度若者に尋ねました。
「白状するつもりはないんだな。」
何と悲惨な光景でしょう。父母は息も絶え絶えに倒れていました。肉は引き裂かれ、骨は打ち砕かれていました。
それでも、仙人の言葉を忘れず、若者は必死になって目を閉じていました。すると、聞き取りにくいかすかな声が聞こえてきました。
「大丈夫だよ。私たちがどうなろうと、お前さえよければそれでいいんだよ。閻魔様に答えたくないのなら、黙っていてもかまわないよ。」
それは、紛れもない母の声でした。若者は胸がいっぱいにになりました。思わず目を開け、目の前に横たわっている馬を見ました。悲しそうに自分を見つめている変わり果てた姿の母を。
「これほど痛さにもがき苦しんでいるというのに、お母さんは私のことを心配してくれている。世間の人々は、お金があるときはおべっかを使うが、お金がなくなると声さえかけてくれない。それに比べて、お母さんは息絶え絶えの中でも、温かい愛情を私にそそいでくれる。」
若者は、母に駆け寄ると、抱きかかえ、涙を流して叫びました。
「おかあさん!」
6 声を出したとたん、若者は夕日の都に戻って、ぼんやりと門の壁に寄りかかっていました。あの霧や、白い三日月、それに人と馬車で混雑した通りも・・・全てが前と同じでした。
「どうかな。この先お前が私の弟子になっていたところで、仙人にはなれそうもないな。」
片目眇めの老人は、苦笑して言いました。
「はい、私には無理なようです。でも、仙人になれなくても今のままで幸せです。」
若者は、目に涙を浮かべ、老人の手を取るりました。
「地獄で、父と母が容赦なく鞭打たれるのを見て、黙っていられませんでした。」
「もし、お前が黙っていたら、私は・・・」
老人は、真剣なまなざしで若者を見つめました。
「もし、お前が黙っていたら、私はお前を殺していたであろう。お前は、もはや仙人になろうとは思わないであろうし、金持ちの生活にも嫌気がさしたことであろう。さて、これからどうするつもりかな。」
「どうなろうとも、人間として正直に生きていこうと思います。」
若者は、以前に比べると、とても明るい表情をしていました。
「今言ったことをよく覚えておきなさい。今後、二度とお前の前に現れることはないであろう。」
老人は歩きかけましたが、ふと立ち止まり、若者を振り返り、晴れ晴れした声で付け加えました。
「おお、そうだ。いいことを思いついた。この山の麓に私の家と畑がある。それをお前に譲ろう。しばらくそこで暮らすがいい。今頃は、桃の花が満開であろう。」(Kudos)作:芥川龍之介(原作:中国)
杜子春(前半)